青森県を代表する夏の祭典「ネプタ」の一角をなす五所川原市のネプタ。現在「立佞武多」と呼ばれるこの巨大ネプタが五所川原の記録に登場するのは、明治40年頃とされ、「立佞武多」という名称は、平成8年、復元に携わった市の有志たちによって命名された。五所川原市は、主に北に金木(かなぎ)、中里(なかさと)の木材資源、西に鯵ヶ沢、深浦の水産資源などの中継地点の商人の町として栄えてきた。巨大ネプタは、それら豪商、大地主の力の象徴として高さを誇るようになり、ゆうに10~12間(約18~21.6メートル)に及ぶようになった。その勇姿は、隣の金木町からも見えたというほど巨大。題材は三国志や歌舞伎など、中国や日本の歴史上の武者が多かったといわれている。そもそも、この立佞武多の特徴である一人立ちの人形燈籠の形態は、現在の青森県に見られる2体以上、または馬などの動物と組みしたネプタとは異なり、古い形のものである。ネプタ(燈籠)の変遷を簡単に述べると、燈籠~大燈籠~人形(主に単数、または金魚・扇などの一人持ち)~巨大人形~組み人形(電線による高さ制限→大きさは横へ=現在)になる。
1840年頃の弘前市の史書によると、高さ約9メートル以上のネプタは珍しくなく、天保12年(1831)に、黒石藩で約14~16メートルの大型ネプタが運行されたと、記されている。また青森市の『伊藤善五郎家文書』によると、青森市浜町町会では明治2年(1874)に約20メートルに及ぶネプタの百人担ぎが行われた記録が残されている。ちなみに明治4年、弘前でネプタが盛大に行われたが、五所川原ネプタと大喧嘩をした、と興味深い記事が残っている。これは、立ち人形の巨大ネプタかどうかは記載されていない。明治16年(1888)には、ネプタの高さ一丈八尺(約5.4メートル)以上から罰金を課すとの通達があったとのことだが、どの程度まで大きくなったかは定かでない。
五所川原に、より”巨大に”伝承されたと思えるネプタ。それは、県内にその名を轟かせた「布嘉」(ぬのか)などの豪商、豪農の力の祭典であったのかもしれない。明治の巨大ネプタの設計者であった秋元末吉さんは、当時の布嘉の抱える大工の一人。布嘉の専業大工であったとのこと。巨大ネプタは百人余りの担ぎ手により、力を象徴するがごとく町を練り歩いた。古老によると、五所川原ネプタは、大正時代末頃までは、高さ約20メートルもあり、隣町の金木町からも見えたという。しかし、戦後の2度にわたる大火により、資料が焼失するなど、詳しい大きさ、年代は定かではない。
明治時代後期の立佞武多
前ページに戻る